Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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デカルト<第三省察>を巡る試論――<私>に絶対的に先立つ差異の受容
                              永澤 護
デカルト(以下「彼」とする)は、『神の存在と魂の不滅を論証する第一哲学についての省察』
の『第三省察』の出発点において、感覚と想像力を次のように規定している。すなわち、これ
らは、「或る一定の思考の様式」である限りは、「私の内に在るということは私にとって確実で
ある」が、他方「私が感覚し或いは想像するものは、私の外においては恐らくは無であろう」
とされる。このように、出発点においてすでに「私の内」と「私の外」が区別されている。そ
れに続いて「一般規則」が立てられる。では、この規則は、やはり彼自身によって立てられた
「私の内」、「私の外」という区別にどのように適用されるのだろうか? 
この区別そのものが真理の確実性を持つのだとすれば、「私の内」と「私の外」という二つの
領域は、互いに異なるものとして同等の権利を持つはずである。そしてその権利はただ、一般
規則により、これら二つの領域の差異が私によって極めて明晰かつ判明に知覚されるというこ
とにのみ由来するはずである。さらに、この差異は常に明晰かつ判明に規定されていなければ
ならない。さもなければ、この差異の真理性が私にとって確実ではなくなる。この差異の規定
は、一般規則の適用を受けるものであるならば、そして、その明晰判明な知覚において「一度
でも」偽であり得ないのものであるべきならば、《常に不変であること》を含んでいなければな
らない。 
しかし、ここでは無論、このような意味で「私の内」と「私の外」の区別が一般規則の適用
を受けているのかどうかはまだ決定できない。従って、この区別そのものもまだ私にとって確
実ではない。そこで、この区別、あるいはこれら二つの領域の差異の確実な規定なしに一般規
則はそもそも私にとっての真理の確実性を保証する規則として立てられ得るのかという問題が
生じる。すなわち、一般規則そのものの確実性がここではなお問題なのである。
つまり、これら二つの領域の確実な、あるいは常に不変な規定なしに私の明晰かつ判明な知
覚そのものが成立し得るのかということが問題となる。 
 ここで彼が「否定しない」のは、なんらかの観念が単に在るということではなく、やはり「私
の内に在ること」である。しかし、この私の内に在る観念がそこから出て、それにまったく類
似している「或るものが私の外に在るということ」は、「実際には私は知覚していなかった」と
言われている。ここでもやはり、「私の内」と「私の外」の区別ははっきりと維持され、かつそ
の前提のもとで明晰かつ判明な知覚の生じ得る領域が「私の内」として規定されている。
 ところで、この「私の内」という領域が、明晰かつ判明な知覚を保証する場であり得るのは、
私の思考が持続していることが私にとって明晰かつ判明である間であり、言い換えれば「現在」
である。この現在においてのみ、私は「私の内」を確保し、そこにまた「確信」もあり得る。 
 しかし、この「現在」と「持続」とはいかにして矛盾なしに共に規定され得るのか。この現
在が持続を含んでいると言えばすむのだろうか? 私の思考の持続は記憶をも含むのでは? 
そして〈記憶〉とは、単に現在に限定されたものではなく、むしろ現在と過去との総合である
と言われ得るのではないか? 
 だが、ここでは〈記憶〉という問題をも含んだ持続が問われているのではない。むしろ、現
在として経験されている「間」としての持続、そしてそのような持続の反復ということが問題
になっている。すなわち、ここでは「……する度にその都度」という表現によって指示されて
いる事態こそが考察されなければならない。この表現において、現在という領域の「無際限な
反復可能性」が、明晰かつ判明な知覚を保証する場としての「私の内」をその都度確保するた
めの条件として指示されているからだ。 
 だが他方、この同じ現在において、従って「私の内」において、まさに明晰判明な知覚から
その真を導き出すことを不可能にさせるような、すなわち一般規則の成立を不可能にするよう
な「先入見」がやはり明晰なものとして、そして絶えず反復され得るものとして存在している。
従って、明晰判明な知覚をともなう現在という領域の無際限な反復可能性がたとえ保証された
としても、それはその知覚の真理性を確実なものにする条件としてはまだ十分ではない。
 すなわち、「極めて明晰かつ判明な知覚、そして常に反復され得るその知覚が真であるのか、
それともあるいはむしろ偽ではないのか」を決定することができない。従って彼は、他の機会
において、「彼(この場合はデカルトに対する反論者)が無神論者であると想定されているから
には、彼にとって極めて明らかであると思われるものそのものにおいて自分が欺かれることは
無いということを彼は確実に知ることはできない」と言うのである。
 ところで、「私の内に在る観念」は、「私の外に横たわる或るもの」との関係から切り離され
てそれを「私の思考の或る一定の様態として考察する」ならば、なんら誤りの材料を与え得な
かったと言われている。ここでは、私の思考の様態であると見なされる限りでの「私の内に在
る観念」が偽ではあり得ない為の条件が示されているが、その観念が真である為の条件は示さ
れていない。なぜなら、この観念が真であると言える為には、この観念が実際に表現している
或るものが、その観念との一対一対応の関係において規定されていなければならないからだ。
では、この観念の関係性は何に基づくのか? 
 彼によれば、この関係を規定するものは、「観念とそれが表現するものとの因果性」である。
「私の内に在る観念」は、それが表現するものを原因とする結果であることによってのみ、そ
の原因との関係において一対一に対応する、すなわち真であり得る。 
 では更に、この因果関係そのものを規定する為の基準は何か? それは、観念の持つ「客観
的な実在性」のさまざまな量的差異である。この量は、一定のものであり、従って基準になり
得る。すなわち、結果としての観念は必ず或る一定の客観的な実在性を持つが、それはその観
念に一対一に対応する原因としての「無ではない或るもの」によってその実在性が与えられた
からに他ならない。そしてこの「或る一定の客観的な実在性」には、必ずその一定の量と「少
なくとも同じだけの形相的な実在性を自らの内に有する或る原因」が対応あるいは「合致する」
ことになる。
 従って、或る観念の真理性を確実なものにするのは、その観念の客観的な実在性の量がまさ
に一定の量として完全に規定されているということである。この一定の量の完全な規定が、結
果としての観念と原因としての《或るもの》との因果関係の完全な規定に対応しているからだ。
そして、「或る観念の客観的な実在性の量の完全な規定」が、「私の内」と「私の外」という二
つの領域の差異の常に確実な規定という問題に関わってくることになる。 
 すると、以後彼が目指すのは、この「観念とその原因との因果関係の常に確実な規定」とい
うことになる。具体的には、私の内の観念、即ち「私の有する観念」の原因としての《或るも
の》が、「私自身」であり得るかどうかを、その観念の客観的な実在性の量の考察によって決定
することだ。もし何らかの観念の原因が私自身であり得ないことが常に確実であるならば、こ
の観念が表現する《或るもの》は私以外の何かであり、従ってそれは「私の外」という領域に
位置するという推論が成り立つことになる。
 だが、私によって唯一つ私自身を原因として考えることの出来ない観念として見い出された
「神の観念」は、一定量としての、従って規定し得る客観的な実在性を持たない。よって、こ
の観念とその原因の因果関係の規定は、この観念の客観的な実在性の完全な規定によって為さ
れるのではなく、「単にその客観的な実在性が無限であると私が明晰かつ判明に知覚するとい
うこと」によって為されるのである。そしてこの知覚の内には、同時に私自身の有限性の明晰
かつ判明な知覚が含まれている。すなわち、この結果としての神の観念の客観的な実在性の知
覚は、この観念を有する私自身と、あるいは私自身の位置する領域(現在であるところの私の
内)と、この観念の原因として思考される《或るもの》との、あるいはその《或るもの》が位
置すると思考される領域との絶対的な差異の知覚なのである。
 ところで、この差異の明晰判明な知覚は、私にとって常に確実であり、また他のどの様なも
のでもあり得ないということから完全に規定されている。すなわち、この差異の規定は、《常に
不変であること》を含んでいる。それでは、この差異の規定は、「私の内」と「私の外」という
二つの領域の差異の規定と重なり合うだろうか。
 すでに見たように、「私の内」とは、それが現在という経験の場である限りにおいて、その経
験(明晰判明な知覚)が無際限に反復される領域であった。例えば、私がその確実性をその都
度確信しつつ数を数えていくことが出来るのはこの領域においてである。だが、この現在の内
に留まる限り、私はこの計算を導く何らかの演算規則が《常に不変であること》を真に確信す
ることが出来ない。私の内に存在し得ないのはこの《常に不変であること》あるいは永遠であ
る。だが、この《常に不変であること》あるいは永遠は、「私の外に在る」と言えるだろうか? 
注目すべきことに、この点について彼は次のように述べている。「そこで私は、私が何らかの
任意の仕方でもって思考ないしは知性によって、私を超えている或る完全性に触れるという、
単にそれだけのことから、すなわち、数を数えていくということを通じてすべての数の内最大
の数に辿り着くことは私にはできないと認知し、かくてそのことから、数を数えるという視点
において私の力を超え出る何ものかがあると気づくという、単にそれだけのことから、次のこ
とが必然的に結論されると主張します。すなわちそれは、無限の数が存在するということでは
まったくなく、また無限の数が、(……)矛盾を含むということでもなくて、私が、私によって
いつか思考されるであろういかなる数よりも一層大きな数が思考可能であると把握するそうし
た力を、私自身からではなくて、私よりも一層完全な《何か或るもの》から受け取ったという
ことなのである、と」

 この様に、<私>はあの絶対的な差異の知覚を、そしてそうした知覚を成し得る力を、《或る
他のもの》から受け取ったのである。そこには、私に決定的に先立つ差異の受容あるいは触発
があった。もし、私が、「私の内」と「私の外」という二つの領域の差異を規定しようとするな
らば、この受容或いは触発の「形」を確定する必要があるだろう。だが、この差異の常に確実
な、あるいは不変の規定は、少なくとも「私の内」においては不可能であるだろう。そして「私
の外」においても。この絶対的な差異は、《或る他のもの》との出逢いがそこで誕生する、「私
の内」でも「私の外」でもない或る時空の彼方の場所で与えられる――すなわち、触れられる
――のではないか。言い換えれば、それは、或る<他者>の誕生と共に、その都度やって来る
一つの試練あるいは訓練として与えられる。それが一体「いつ」なのか、そして「どこ」なの
か、私はそのことを知ることが決して出来ないのだとしても。 


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